あまり期待はしていないが一応子供には中学入試を受けさせようと思っている。
まあ学校でもそこそこの成績ではあるので受かれば儲けもんといったところか。
私立の中学入試の場合は正統派というか、きっちり算数国語でもそれなりの難問が出る。
一応僕も難関私立校を突破した経験があるので、その困難さはよくわかっている。
が、これが県立中学になると「適性検査問題」というもので、これがなかなか捻られているものだ。
過去問を購入してざっと目を通してみてが、所謂知識、計算力、そして「人に伝える能力」というものが求められている。
特に「人に伝える能力」というのは社会人ですらド下手な人が多い。
僕も一応管理職なので下の人達の情報伝達については、いつ、誰が、何を、どこで、なぜ、どのように、という、5W1Hとか詳しく教育を行っている。
新人、いや20年選手ですら、こういった伝え方をいうのを学ばすに社会人になってしまっているのをよく見かける。
「それはいつから?」「調べてません」
「それはなぜ?」「相手先が言わなかったのでわかりません」
こんなことばかりだ。
本来は自分の方が相手から情報を聞き出す義務があるのに、相手先が言わなかった、と他責の習慣まで付いてしまっているという弊害もある。
特に「なぜ」について相手に伝える習慣が無いものだから、自分自身が行動するときも「なぜこれをやるのか」を考えずに覚えようとする。
「なぜ」はとても大事で、それをやるには理由があり、それをやらなかったら後でエライ目に遭うことがわかっているのだから、その理由を考えずに機械的に覚えて動こうとするだけでは絶対にやり忘れるか、やらないことに対して何ら抵抗を感じなくなる。
これは例えば運転時の一時停止を守らないドライバー等でも同じことだろう。
たまに職場でも決められた業務と違うおかしなことをやる人がいるが、「なぜそれをやったのか?」と問うと、本人も明確に答えられないということもよくある。
「そうした方がうまくいくと思ったので」
「なぜそう思ったの?」
「確かな理由はありません」
「・・・そのやり方ではまずいから元々業務のルールを決めているのだし、ルール通りにやればいいだけだよ?」
「でも自分なりに考えてやったんです(だから褒めてください)」
よく「今どきの若者は」とか言って若者をターゲットにして批判されることが多いが、それは違うと思う。
僕の経験では、このパターンは実際のところ20代の若い人よりも30代40代に多い。
20代前半でそういう考え方の人はまだ改善ができる可能性があるが、改善されないまま30代に突入するともう変えるのは無理のように思える。
さて、文章で述べる筆記試験というのは、どれだけ自分に知識があり、どれだけ自分がよく考えているかということを、採点者によくわかってもらうことが重要だ。
つまりどれだけ自分のことを相手に伝えることができるかどうかということだ。
長崎東中学校の過去問では太陽光発電についての問題があり、これは太陽の動きその他のことについて子どもたちに導き出させることをはかる良問だ。
家の屋根の3方角だけソーラーパネルが貼られている図がありその理由を考えさせるのだが、これで、
「太陽の動きに合わせて設置している」
と答えるのと、
「太陽が東から昇り、南中の後、西に沈むからその3面に設置している」
と答えるのでは、採点者に対してどれだけ自分の知識を伝えられているか全く異なる。
仮に前者が東→南中→西という太陽の動きを知った上で書いていたとしても、相手に伝える能力をはかる上での適性試験で選ばれるのは後者の方だ。
「眼はカメラと似たような働きがあります」と伝えるか、「カメラで言えば、眼の角膜がレンズ、虹彩が絞り、網膜がフィルムのような働きをします」と伝えるかの違いのようなものだ。
いくら自分に知識があっても、伝え方次第で自分の評価というのは相手からは大きく変わる。
知識がなくても問題だし、知識があってもジャッジする相手に伝わらなければ知識が無いのと同じ扱いになる、ということだ。
一応私立も県立も併願させる予定だが、まあ学力重視の正統派の受験も悪くはないが、僕は県立中の適正試験のような知識も思考力も伝達能力も問うようなものについては非常に良いものだと思っている。
受かろうと受かるまいと、しっかりと物事を人に伝えられるような子になってくれるといいなぁ。
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